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各務の生家と思われる近辺の風景

各務鎌吉(敬称略)が、岐阜市安食の出身であることは、事実としていいと思います。 中には、各務の苗字から各務原市の出身などと書いてある本もありますが、多くの書籍は、彼を安食出身と位置づけています。  しかし、それ以上の事はよくわかっていません。
彼についての書籍の記述は、
 1.「安食の貧農の次男に生まれ…」(「各務鎌吉君を偲ぶ」松永耳庵談p39)
 2.「彼の父親は幕末に東京に出て一旗挙げるつもりであったが、こと志と違い、
  維新政府の大蔵省の一属吏として、世を去った。(中略)甲州源氏の一属
  各務美濃守の末だという」
  (「日本財界人物傳全集;第9巻 各務鎌吉伝」p16)
 3.「平和な村の小地主の次男坊に生まれた。少年謙吉は幼少時代、自宅から二丁
  程離れた伊自良川に遊び(中略)謙吉の父省三は驛逓寮の雇員から小商人とな
  り余りにも惠まれず に世を去ってしまった(中略)これと反対に母鐡女は謙吉
  と同様なかゝ負けず嫌いの性格で兄弟三人の教育には父よりも寧ろ母の方が主
  として當っていた(中略)謙吉は母方の里である本榮郡文字村(ママ)の小学
  校に通い始めた。小学校における成績は先づ上であった、科目の中でも、そろ
  ばんが一番得意のやうに見えた、読み書きも相當なものであった。当時の受け
  持ちの先生が『各務は口よりも頭の方が発達してゐる、物を言ふ前に己の頭脳
  にチャント言ふべき事を刻み付けて暫らくしてから言葉に現はす、馬鹿でなけ
  れば大人物になるかも知れぬ、兎に角普通の道を普通に歩いて世の中を送る男
  ではないから』」(宇野木忠著「各務鎌吉」p3~9)
 4.「葦敷村は源頼朝が平家に滅ぼされた時、その一属に葦敷太郎という者があっ

 て、美濃に逃れ、その所を葦敷村と呼んだ。この葦敷太郎が各務の祖先だという。又一説によるる各務は甲州源氏の落武者各務美濃守の後裔だともいう。
 遠い祖先は、よく村のために尽くした、かの薩摩武士の切腹事件で名高い美濃の三川分流工事に努力したこともある。各務の父は維新当時教理を出て京都へ
 行った。暫く公卿奉行をしていたが、後東京に出て、大蔵省の属官になり、明治十八年頃死んだ。各務は当時、一橋の高等商業に在学中であった」
 (福沢桃介「財界人物我観」より)

 以上の様に書かれている、各務鎌吉の岐阜でのルーツを確定させることは、難しい事です。 1~4の本の記述を比べても、安食での家の地位、貧農か?子地主か?父省三は、駅逓寮の官吏か大蔵省の官吏か?等が疑問に残ります。
 父省三については、明治7年の「蕃地事務局職員禄」に“大蔵省十三等出仕各務省三”との記述があり、大蔵省の役人であったことは、間違いない事かと思います。
 3にある記述は各務の幼少の頃が書かれていますが、この本榮郡文字村は、本巣郡文殊村の事だと思いますが、そこは母鐡女の里の高橋一頭の住所地です。文殊村武備に居を置く高橋家は、地元では草分けの素封家で、多くの文化人を輩出しています。この地区に寺小屋を開いたのも、高橋一頭で、明治5年の学制の公布により、明治6年4月小学義校が開校されています。(文殊村法林寺村連合 博文学校-法住寺本堂に開校)当時の小学校として、そのレベルが高かったのではないかと思われます。それ故、母の意向で安食ではなく文殊の自分の里の学校に通わせたのではないでしょうか?
 母鐡女は、教育に熱心でした。各務の姉の嫁ぎ先は漢詩人の大家森槐南であり、それは彼女自身が相当の教養があったからこそと思われ、それはとりもなおさず、母鐡女の教育の賜物であったからだと思われるのです。
 父親が、いつまで大蔵省にいたのかは定かではありませんが、暮らし向きはあまりよくなく、副業で茶葉を売る店をはじめ、お金の足りない時は故郷に残した田畑山林を売ったと3には書かれています。

 過日岐阜市安食の長老のS.H(93歳)さんにお話しを伺ってきました。
 残念ながら、各務一頭は現在では、わずか1軒を残すのみで、村を出て東京へ行かれた方ばかりだそうです。庄屋ではなかったけれど、かなりの土地持ちであって、とにかく頭の良い一族として評判であったそうです。
 子供の頃「この村から、大蔵大臣でも外務大臣でも、それこそ総理大臣にでもなれるような人が出た」と聞いていたそうで、これはまさしく各務鎌吉のことなのでしょう。
 安食には、村の神社の他に、一族の宮というものがあります。「各務一頭中」の石碑のあるそれは、祠に冬囲いはしてありましたが、そこに到る道らしき道はなく、訪れる方も殆無い様なありさまでした。同じく各務家先祖代々の墓も、今や山に飲み込まれんとしているような状態でした。各務家は岐阜の安食から出でて、今は東京の各務家になっているのかもしれません。
  幼少期に岐阜から出て行った各務にとって、故郷というものが、どれ程のものであったのかは、想像できませんが、 「各務鎌吉君を偲ぶ」の中で「川魚わ人によって好き嫌いがあるものですが、各務さんわ、鮎、もろこ、鰉などを召上って、淡白な風味のものを御好きのようでした。御生国の岐阜県わ、幽邃な清流が多いので、私が『川魚を召上りになりますか』と尋ねると、『そうだ子供の時はよく喰べたものだ』と仰有いました」(「各務鎌吉君を偲ぶ」塚本市蔵談) と書かれていますから、子供の頃の懐かしい思い出と共に、岐阜の安食は心にあったのかもしれません。現在の伊自良川は、それほど流量も多くありませんが、同じくS.Hさんの話では、「昔は、アユでもウナギでもどれだけでも獲れた」とのことでしたらか、各務の幼少の記憶の通りなのでしょう。
 安食にある熊野神社には、「大正十五年寄贈 各務鐡女」と刻まれた鳥居が立っています。各務の母親は父親と違い九十才前後までの長生きであったとのことですから、これは多分各務の母親の寄進でしょう。そのお金の出どころは、各務かあるいは、兄の幸一郎であったことでしょう。
 10歳の時に岐阜の小学校から、東京芝の小学校へ転校し、府立一中(今の日比谷高校)から、東京高等商業学校(今の一橋大学)を主席で卒業した彼は、一時別の仕事に就きますが、明治23年に、東京高等商業学校の校長矢野二郎の推挙で東京海上に入社します。それ以来、亡くなる昭和14年まで、東京海上に身を置きました。彼は一業専心の人であったのでしょう。
 それ以後の各務の活躍は、多くの書籍で読むことができますが、事務員が、数多ある各務についての本を読んで、印象深かったことを数点あげたいと思います。

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